話を子どもの勉強に戻すと、私たちにとって家事が面倒なものであるように、多くの子どもにとっての勉強もまた、面倒なものであると考えてみるとどうだろう。一見するとやる気に溢れて勉強を頑張っていように見える子も、実は勉強を頑張らねばならない何らかの要因が作用して、その行動の結果として勉強を頑張っていように見えるという方が、人としてごく自然であるように思われる。そこには良い意味での「惰性」があるのではないか。
たいていの子どもにとって、勉強というのはつかみどころのない、しかし学校に通う限りは常につきまとう逃れられない難題だ。
「何のために勉強をするのかよく分からない。勉強が大事なのは頭ではなんとなく分かっているけど、何がどう大事なのかは説明できない。
だいたい『なぜ勉強するのか』という質問を大人に投げかけたって、当の大人でさえ納得のいく説明ができていないじゃないか。どうも勉強とはよく分からないものだ。
しかしこの勉強、別にやらなくても特に誰も困らないし、できなくても誰にも迷惑はかけないらしい!それなら、そんな面倒なことなんか頑張らないで、友達と遊んだりスポーツに励んで気持ちよく汗を流していた方が、よほどストレスフリーで有意義じゃないか?」
とまあ、だいたいこんな感覚の子が多いんじゃないだろうか。大人の家事と違って、別に勉強ができなくたって、それで生活に悪影響が出るわけではないのは、確かにその通りである。大人からしたら、最終的に困るのは自分自身だと言ってやりたくなるだろうが、こちらも予言者ではないのだから強く断言することもはばかられる。
「いいえ、私は勉強が将来のためになると思って頑張ってます。勉強をしないとどこの大学にも行けなくなるし、仕事がなくなるから、やっぱり勉強をしないと自分が一番困ると思います」
こんなことを言う優等生タイプの子も、中にはいるかもしれない。実に頼もしい意見ですね。しかし、「勉強をしないと自分が困る」というのは、その子が実際に「困ったこと」を体験して得た知見ではない。先ほども言ったとおり、予言者でもない限り、本当に勉強をしなくて困るかどうかは、将来になって実際に困ってみなければ分からない。おそらくその子の意見は、大人の価値観のお仕着せになっていないだろうか?
そうだ、先の運命なんて誰にも分からない。誰も自分の未来の姿なんて見たことはないはずだ。ましてまだ社会というものをよく知らない小中学生が描いた未来予想図は、どこまで社会の実状に見合っているだろうか。勉強しなくても幸せな人生を送れる可能性だって、もしかするとあるかもしれないのに。
(次回に続く)
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